宇宙の始まり
まずはじめにあったのは、「存在のすべて」、それだけだっ
青色のハイライト | 位置: 545
存在のすべて」は、自分自身が何かを知ることはできない。なぜなら「存在のすべて」──あるのはそれだけで、ほかには何もないから。ほかに何かがなければ、「存在のすべて」も、ないということになる。「存在のすべて」は、裏返せば「無」と同じだっ
黄色のハイライト | 位置: 549
さて、「存在のすべて」は、あるのは自分自身だけだと知っていたが、それだけでは充分ではなかっ
黄色のハイライト | 位置: 550
なぜなら、「存在するすべて」であることの絶対的なすばらしさを概念的には知っていたが、体験的には知りえなかったから。そこで、自らを体験したいと激しく望ん
黄色のハイライト | 位置: 552
すばらしいというのは、どんな感じなのか、知りたがった。だが、それは不可能だった。なぜなら、「すばらしい」という言葉そのものが相対的なものだったから。「存在のすべて」は、すばらしくないとはどういうことかわからなければ、すばらしいとはどんなものかを知ることができなかった。否定があってはじめて、肯定があるから
オレンジ色のハイライト | 位置: 557
「存在のすべて」が知っているのはただひとつ、「ほかには何もない」ということだけだった。外側に比較対照するものがなければ、いつまでも自らを知ることはできない。「存在のすべて」には、そんな比較対照の基準がなかった。比較対照の基準が何かあるとすれば、それは内部にしかない。これが「すべてであって/ない」こと、「わたしであり/わたしでない」ということだ。 だが、「存在のすべて」は、自らを体験的に知ろうとした。 このエネルギー──純粋な、見えず、聞こえず、観察できず、したがってほかの誰も知りえないエネルギーは、自分のすばらしさを体験しようとした。そのためには、自分のなかにある比較対照の基準を使わなければならないと気づい
黄色のハイライト | 位置: 558
ない。「存在のすべて」には、そんな比較対照の基準がなかった。比較対照の基準が何かあるとすれば、それは内部にしか
オレンジ色のハイライト | 位置: 563
そこでいみじくも考えた。一部は全体よりも小さいはずだ。それなら自らを分割すれば、それぞれの部分は全体よりも小さいのだから、残る全体を振り返って、すばらしさを知ることができるだろう。 そこで、「存在のすべて」は自分を分割した。栄光の一瞬に、「これであるもの」と、「あれであるもの」とになった。はじめて、「これ」と「あれ」が分かれた。しかも、どちらも同時に存在している。また、「どちらでもないもの」も存在している。 こうして、突然に三つの要素が生まれた。ここにあるもの。あそこにあるもの。そしてここにもあそこにもないが、こことあそこが存在するためには存在しなければならないもの。つまり、あらゆるものを包みこむのは無である。空間を包含するのは、非空間である。部分を支えるのは全体で
黄色のハイライト | 位置: 573
さて、あらゆるものを包みこむ無、それをある人びとは神と呼ぶ。だが、これも正確とは言えない。そうすると、無ではないあらゆるもの、それは神ではないことになってしまう。わたしは──見えるものも見えないものも含めて──「存在の
黄色のハイライト | 位置: 576
だ。したがって、東洋の神話で定義される神、つまり偉大なる「見えざるもの」とか、無、 空 といった説明もまた、神とは見えるすべてであるという西洋の現実的な説明と同じく、不正確なことになる。神とは「存在のすべて」であって、同時に「すべてでない」ものでもある、そう信じる者は正確に理解している。 さて、「ここ」にあるものと「あそこ」にあるものを創り出した神は、自らを知ることが可能になった。この内側からの爆発が起こったとき、神は相対性という自分への最も偉大な贈り物を創造した。したがって、相対的な関係は、神があなたがたに与えた最も偉大な贈り物でもあるのだが、そのことはもっとあとで詳しく説明しよう。 ついでだが、何ものでもないものから、すべてが飛び出してきたこと、この根源的な出来事こそ、科学者の言う「ビッグ・バン仮説」にほかなら
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